同志と共に

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守護国家論(しゆごこつかろん)

難易・勝劣といい、行浅功深といい、観経等の念仏三昧を法華経と比較すると、(念仏三昧は)難行の中の極難行であり劣の中の極劣である。
そのうえ悪人・愚人を助けることは、また教の浅深による。阿含十二年の戒門では現身に四重・五逆の者に得道を許していない。華厳・方等・般若・雙観経等の諸経は阿含経より教えが深いので、勧門の時は重罪の者を摂するが、なお戒門の段階では七逆の者に現身の受戒を許していない。しかしながら決定性の二乗や無性の一闡提に対しては、誡門・勧門共に許していない。法華・涅槃等ではただ五逆・七逆・謗法の者を摂しているだけではなく、また定性・無性も摂している。なかんずく末法においては常没の一闡提が多い。どうして観経等の四十年余りの諸経にてこれを助けることができようか。無性の常没・決定性の二乗はただ法華・涅槃等に限るのである。四十年余りの経に依る人師はその経の機根の衆生であるとしている。この人は未だ教法の勝劣を知らないからである。
ただし往生要集は一往序分を見る時は法華・真言等を顕・密の内に入れて、殆んど末代の機根に叶わないと書いているが、本文に入って委細に一部三巻の始めより終わりを見ると、第十の問答料簡の下に正しく「諸行の勝劣」を定める時、観仏三昧・般舟三昧・十住毘婆沙論・宝積・大集等の爾前の経論を引いて、一切の万行に対して念仏三昧が王三昧と立てている。そして最後に一つの問答がある。爾前の禅定・念仏三昧は法華経の一念信解と対すると、百千万億倍劣ると定めている。また問いへの答えは、念仏三昧が万行より勝れているというのは爾前の範囲内のことであるといっている。まさに知るべきである。慧心の本意は往生要集を著して、末代の愚かな機根を調えて法華経に入れる為である。例えば、仏が四十年余りの経々で権教の機根を調え、法華経に入れられたようなものである。
故に最後に一乗要決を著し、その序に「諸宗の権・実は古来よりの諍いである。ともに経論を拠り所として互いに是非に執着している。私は寛弘丙午の歳冬十月、病中に歎いていわく、仏法に遇いながら仏意を理解せず、もし終に空しく死んでいくならば、どうして後悔が残らないことがあろう。そこで経論の文義・賢哲の章疏を或いは人をして究明し、或いは自ら思索して、全く自宗・他宗の偏った考えを捨て、もっぱら権智・実智の深奥を探ったところ、終に一乗は真実の理・五乗は方便の説を得たのである。すでに今生の迷蒙を開いたのであるから、どうして夕べに死ぬことに恨みを残すことがあろうか」と述べている。