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以上この序の意はひとえに慧心の本意を顕すものである。自宗・他宗の偏った考えを捨てるならば、浄土の法門も捨てるべきであろう。一乗が真実の理であると心得る時は法華経によるべきではないか、と。源信僧都は永観二年甲申の冬十一月に往生要集を著し、寛弘二年丙午の冬十月の頃、一乗要決を著した。その中間は二十年余りである。権を先とし実を後にした。あたかも仏のようにである。また竜樹・天親・天台等のようにである。あなたは往生要集を頼りとして、師の謗法の失を救おうとしているけれども、その教義の類は同じではない。教義内容が同類であるから、一ヶ所に集めたというなら、どの教義内容と同じであるのか。華厳経は二乗界を隔てているので十界互具は無い。方等・般若の諸経はまた十界互具を許していない。観経等の往生極楽もまた方便の往生である。これらの成仏・往生ともに法華経で説くような往生ではない。すべて別時意趣の往生・成仏である。
そのうえ、源信僧都の本意が四威儀において修行しやすいゆえに念仏を易行といい、四威儀において修行し難いゆえに法華を難行と称するのであれば、天台・妙楽の釈を破る人となる。その理由は、妙楽大師は末代の鈍者や無智の者が法華経を修行すると普賢菩薩並びに多宝・十方の諸仏を見られることを易行と定め、「散心に法華を誦し、禅三昧に入らずとも、坐・立・行において一心に法華の文字を念じよ」といわれている。この釈の趣意は、末代の愚者を摂する為である。"散心"とは定心に対する言葉である。"誦法華"とは法華経八巻・一巻・一字・一句・一偈・題目をそらんじること、また一心・一念に随喜する者、五十展転等である。"坐・立・行"とは四威儀を嫌わないことである。"一心"とは禅定の一心ではない。理の一心でもない。散心の中の一心である。"念法華文字"とは、この経は諸経の文字と同じではない。一字を読誦するだけで八万宝蔵の文字を含み、一切諸仏の功徳を納めるのである。
天台大師は玄義の八でこう述べている。
「手に巻を取らなくとも常にこの経を読み、口に声を出さなくとも広く衆典を読誦し、仏が説法しなくとも常に梵音を聞き、心に思索しなくとも普く法界を照らす」
この文の意味は、手に法華経一部八巻を取らなくともこの経を信じる人は、昼夜十二時にわたる持経者である。口に読経の声を出さなくても法華経を信じる者は日々時々念々に一切経を読む者である、ということである。
仏の入滅から既に二千年余りを経た。しかしながら法華経を信じる者の許に仏の音声を留めて、時々・刻々・念々に釈尊は不滅であることを聞かしめておられる。
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