同志と共に

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守護国家論(しゆごこつかろん)

心に一念三千を観じなくても広く十方の法界を照らしている。これらの徳はひとえに法華経を行じる者に備わるのである。この故に法華経を信じる者はたとえ臨終の時、心に仏を念じなくとも、口で経文を読誦しなくとも、道場に入らなくとも、意識せずに法界を照らし、声に出さなくとも一切経を読み、巻軸を取らなくとも法華経八巻を拳る功徳がある。これらはまさに権教の念仏者が臨終正念を期して、十念の念仏を唱えようとする者に百千万倍勝る易行ではないか。故に天台大師は文句の十で「すべて諸教に勝る故に随喜功徳品という」と述べられ、妙楽大師は、法華経は諸経より浅い機根の者を取るにもかかわらず、人師はこの義を弁えずに法華経は深い機根の者を取る、としていることを破折して「おそらく間違って理解する者は、初心の功徳の大きいことを測らずに、功徳を上位に推しすすめて、この初心を蔑るであろう。故に今法華経の修行は浅く功徳は深いことを示して経力を顕す」と述べている。"以顕経力"の釈の意味は、法華経は観経等の権経に勝れているため修行は浅く功徳は深い。それは浅機を摂するからである、ということである。もし慧心・先徳が法華経を念仏より難行と定めて、愚者・頑魯の者を摂しないというなら、おそらくは師敵対の罪を招くであろう。"恐人謬解"の部類に入ることであろう。
総じて天台・妙楽の三大部の本書及び注釈書の意味は、法華経は諸経に漏れた愚者・悪人・女人・常没の一闡提等を摂するということである。他師は仏意を覚らないために法華経は諸経と同じである、或いは初地・初住の機を取り、或いは凡夫においても別時意趣の義を立てていた。これらの邪義を破折して人・天・四悪趣は法華経の機根と定め、種類相対をもって過去の善悪を収め、人・天に生じた人にどうして過去の五戒・十善がないことがあろう等と定められたのである。もし慧心がこの義に背いているなら、どうして天台宗を知っている人といえよう。ところが源空は深くこの義に迷うために往生要集を誤解し僻見を起こして自ら罪を作り他人をも誤らせたのである。たまたま宿善があって実教に入りながら、一切衆生を権教に逆戻りさせただけではなく、実教を破らせたのである。どうして悪師でないといえるのか。かの久遠下種・大通結縁の者が、五百塵天劫・三千塵天劫を経たのは、法華の大教を捨てて爾前の権小に移ったためであり、後に権経をも捨てて六道を輪廻した。不軽菩薩を軽んじて毀った人々は千劫の間阿鼻地獄に堕ちた。権師を信じて実経を弘める者を誹謗したためである。