同志と共に

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守護国家論(しゆごこつかろん)

しかるに源空はただ我が身が実経を捨てて権経に入っただけでなく、人をも勧めて実経を捨てさせ権経に入らせ、また権経の人を実経に入れないようにし、あまつさえ実経の行者を罵るため、その罪は永劫にも浮かぶことはできないであろう。
問う。
十住毘婆沙論は釈尊一代の通論である。難・易の二道の中に何故法華・真言・涅槃を入れないのか。
答える。
一代の諸大乗経に於て華厳経は初頓と後分がある。初頓の華厳は二乗の成仏・不成仏を論じていない。方等部の諸経では一向に二乗や無性の一闡提の成仏を排斥している。般若部の諸経もこれと同じで、総じて四十年余りの諸大乗経の意は法華・涅槃・大日経等のようには二乗・無性の成仏を許していない。これらのことから考えると、爾前と法華の相違は水火のようである。滅後の論師である竜樹や天親もまたともに千部の論師である。彼らの著した論には通・別の二論がある。通論においてまた二論がある。四十年余りの通論と一代五十年の通論である。その違いを見分ける基準は、決定性の二乗・無性の一闡提の成仏・不成仏であり、これによって論の権実を定めるのである。そして大論は竜樹菩薩が著して羅什三蔵が訳した。〔大智度論は般若経による時は二乗作仏を許さない。法華経によれば二乗作仏を許す。十住毘婆沙論もまた竜樹菩薩が著して羅什三蔵が訳した〕この論にてもまた二乗作仏を許していない。このことから、法華以前の諸大乗経の意を述べた論であることがわかる。
問う。
十住毘婆沙論のどこに二乗作仏を許さないという文が出ているのか。
答える。
十住毘婆沙論の第五に「もし声聞地及び辟支仏地に堕ちることを菩薩の死と名づけるならば、則ち一切の利を失う。もし地獄に堕ちるともこのような恐れを生じない。もし二乗地に堕ちれば則ち大怖畏となる。地獄の中に堕ちるとも究極的には仏に至ることができるが、もし二乗地に堕ちれば究極的に仏道を遮られるからである」とある。この文で二乗作仏を許していない。あたかも浄名等の「於仏法中以如敗種(仏法の中においてもって敗種の如くである)」の文のようである。
問う。
大論は般若経では二乗作仏を許さず、法華経にて二乗作仏を許すという文はどこにあるのか。
答える。
大論の一百にこうある。
「問う。更にどのような法が甚深で般若より勝れた法であり、しかも般若を阿難に属累し、余経を菩薩に属累するのか。答える。般若波羅蜜は秘密の法ではない。しかるに法華等の諸経は阿羅漢の受決作仏を説くゆえに大菩薩はよく受けて持ち用いる。たとえば大薬師がよく毒をもって薬とするように」
また九十三にはこうある。
「阿羅漢の成仏は学者の知る所ではない。ただ仏だけがよく知っておられるところである」
これらの文をもって思うに、学者の論に権・実があるのは、あたかも仏の説法の権と実のようである。