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一度開いて以後、永く閉じないのはただこの念仏の一門である」
最後の述懐にはこうある。
「速やかに生死の苦を離れようと思うなら、二種の勝法の中ではとりあえず聖道門をさしおき選んで浄土門に入れ。浄土門に入ろうと思うなら、正・雑二行の中ではとりあえず諸の雑行をなげうって選んで、正行に帰依しなさい」
門弟がこの書を伝えて、日本国六十余州に充満させているために、その門人が世間の無智の者に語り「上人は智慧第一の身となってこの書を著し(念仏が)真実の教えと定めて、法華・真言の門は閉じて後に開くという文は無く、抛って後にまた取るという文も無い」等と立てたので、世間の道・俗は一同に頭を傾けた。その義を求める者には仮名文字で選択の内容を述べて、法然上人の物語を著したり、法華・真言に難癖をつけたり、あるいは去年の暦や祖父の履物にたとえたり、法華経を読むのは管・絃の音楽より劣るなどと悪口した。
このような悪書が国中に充満したために。法華・真言等が国にあろうとも聴聞することを願わず、たまたま行じる人がいても尊重することをしない。一向念仏の者が法華経に結縁することは往生の障害となるなどと言うので捨てて離れる心が生じたのである。そのため諸天は妙法を聞くことが出来ず、法味を甞められないため、威光勢力は無くなった。四天王並びに眷属はこの国を捨てて、日本国守護の善神は離れてしまったために、正嘉元年に大地は大いに震え、同二年に春の大雨が苗を枯らし、夏の大旱魃で草木は枯れ、秋の大風で果実を失ったのである。飢渇はたちまちに起こって万民を逃げ出させるに至った。金光明経の文の通りである。どうして選択集の失ではないと言えようか。仏の言葉は虚言でないゆえ悪法は流布し、既に国に三災が起こっている。しかもこの悪義を対治しなければ、仏の所説の三悪を免れることはできないであろう。したがって私は近年より「我は身命を愛さない。ただ無上道を惜しむ」の文を見て、雪山童子・常啼菩薩の心を起こし、命を大乗の流布に替え、強い言葉で「選択集を信じて後世を願う人は無間地獄に堕ちるだろう」と言ったのである。そのとき法然上人の門弟は選択集にある先の悪義を隠し、諸行往生を立てたり、選択集において法華・真言を破ってはいないなどと称したり、在俗に選択集の邪義を知らせない為に妄語を構えて「日蓮は、念仏を称える人は三悪道に堕ちると言っている」などと言ったのである。
問う。
法然上人の門弟が諸行でも往生出来ると説くのは間違いかどうか。
答える。
法然上人の門弟と称して諸行往生を立てるのは師敵対の者である。今の世もまた諸行往生の義を立てている。しかも内心には一向に念仏往生の教義を立て、外には諸行を謗っていないなどと喧伝している。
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