同志と共に

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守護国家論(しゆごこつかろん)

問う。
今の世の道俗は偏えに選択集に執着し、法華経や涅槃経は自身に不相応であると思っているので、護惜建立の心が無く、たまたま邪義であると称する人がいたなら、念仏を誹謗する者といって、悪名を天下にいいふらす。これらはどういうことか。
答える。
自分の言葉で答えるべきではない。仏が自らこの事を記している。
仁王経にこう説かれている。
「大王よ、我が滅度の後、未来世の中の四部の弟子・諸々の小国の王・太子・王子すなわち三宝を持って護る者がかえって更に三宝を滅破することは、師子の身中の虫が自ら師子を食うようなものである。外道ではなく、多くの仏弟子が我が仏法を破壊し、大きな罪過を得るであろう。正法は衰え希薄になり、民衆に正行は無くなり次第に悪行を為すので、その寿命は日毎に減じて百歳に縮む。人は仏法を破り、また親孝行もせず、六親は不和となり、諸天善神も助けず、疾疫や悪鬼が日毎に来て侵害し、怪しい災いが続き、絶え間なく禍いがあらわれ、地獄・餓鬼・畜生界に入るであろう」
また次下にこうある。
「大王よ、未来世の中の諸々の小国の王や四部の弟子が自らこの罪を作るであろう。破国の因縁、(中略)・諸々の悪比丘は多く名利を求め、国王・太子・王子の前において自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説くだろう。その王はわきまえずこの言葉を聴いて信じ、(中略)・その時に正法がまさに滅びることは久しくないであろう」
私が選択集を見ると、この文の未来記に少しも違っていない。選択集は法華経や真言等の正法を雑行・難行と決めつけている。末代の我等には時と機が相応しないから、これを行じる者は千人のうち一人として往生しない。仏は法華経等を説かれたが、法華・真言の諸行の門を閉じて念仏の一門を開いたのである。末代においてこれを行じる者は群賊等であるなどと言って、今の世の一切の道俗にこの書を信じさせたため、人々はこの義をもって如来の金言と思っているのである。このため世間の道俗に仏法を建立する意志は無くなり、法華や真言の正法の法水はたちまちに乾き、天界・人界は減少して三悪が日々増長している。ひとえに選択集の悪法にそそのかされて起こる邪見である。この経文で仏は記して「我滅度後」といわれるのは、正法の末の八十年、像法の末の八百年、末法の末の八千年であり、選択集の出る時は像法の末・末法の初めであるから、八百年の内である。仁王経が記す時節に当たっている。諸の小国王の王とは日本国の王である。中品・下品の善を修したのは粟を散らしたような小さな国の王となる。「如師子身中虫(師子の身中の虫のごとし)」とは仏弟子の源空のことである。諸悪比丘とは所化の衆のことである。「説破仏法因縁破国因縁(仏法を破る因縁・国を破る因縁を説かん)」とは上に挙げた選択集の言葉のことである。