「我は常にこの娑婆世界に在る」
またこうある。
「我は常にここに住し」
またこうある。
「我がこの土は安穏」
これらの文の通りなら、本地が久遠実成の円教の仏はこの世界におられる。この国土を捨てていずれの浄土を願うことがあろう。したがって法華経修行の者が住む所を浄土と思うべきである。どうして煩しくも他処を求めることがあろうか。
故に神力品にこうある。
「もしくは経巻のあるところ、もしくは園中において、もしくは林の中において、もしくは樹下において、もしくは僧坊において、もしくは俗人の家にて、もしくは殿堂でも、もしくは山谷や曠野にて。(中略)まさに知るべきである。これらの場所は即ち道場である」
涅槃経にはこうある。
「善男子よ、この大涅槃は微妙の経典である。流布される場所その地はそのまま金剛である。この中の諸人もまた金剛である」
法華・涅槃を信じる行者は他所を求めるべきではない。この経を信じる人のいる場所がそのまま浄土なのである。
問う。
華厳・方等・般若・阿含・観経等の諸経を見ると、兜率天・西方・十方の浄土を勧めている。そのうえ、法華経の文を見るとまた兜率天・西方・十方の浄土を勧めている。なぜこれらの文に反してただこの瓦礫やイバラ・トゲに満ちた穢土を勧めるのか。
答える。
爾前の浄土は久遠実成の釈迦如来が出現した浄土であり、実際にはすべて穢土である。法華経はまた方便と寿量の二品が肝心である。寿量品に至って真実の浄土を定める時、この土を即ち浄土と定めたのである。ただし兜率天・西方・十方を勧めるという申し分については、爾前の名目を改めずにこの土に兜率・西方等の名を付けたのである。例えばこの経に三乗の名前が有るが、三乗はいないようなものである。「不須更指観経等也」の釈の趣意はこのことである。法華経に結縁の無い衆生が今の世で西方浄土を願うのは瓦礫の土を願うようなものである。法華経を信じない衆生は誠に分添の浄土も無いのである。 第三に涅槃経は法華経流通の為に説かれたことを明かす。
問う。
光宅の法雲法師並びに道場の慧観等の碩徳は、法華経をもって第四時の経と定め、無常の熟蘇味と立てた。天台智者大師は法華経と涅槃経は同味と立てた。しかし、また落穂ひろいとの義を示している。二師は共に菩薩の権化であり、両者とも徳行を具えている。いずれを正論として私たちの迷心を晴らせばよいのか。
答える。 たとえ学者や訳者であるといっても、仏教に相違して権と実の二教を判じなければ、疑いを加えるべきである。
|