善導が念仏を称えると、口から仏が出てくるといって、称名念仏一遍を称えると三体づつ口より出てくると伝えられている。
毎日の所作として、阿弥陀経六十巻・念仏十万遍を欠かす事はなかった。多くの戒品を持って一戒も破らず、三依は身の皮のように脱ぐ事がなく、鉢ビョウは両眼のように身から離さず、精進して身心を清浄にした。女性を見ないで一生を過ごし、不眠三十年なりと自賛した。
およそ善導の行儀法則はというと、酒肉・五辛を制止して、口に噛まず手に取らずに、未来の多くの僧もこのように修行するべしと定めた。念仏を称える者が一度でも酒を飲み、肉を食べ、五辛等を食べると、三百万という長い年数の間地獄に墮ちると禁しめた。善導の行儀法則は本律の制より過ぎていると、法然房が起請文にも書いて載せている。
全世界が善導和尚を仏道修行へ導く人と仰ぎ、貴賎・上下はすべてことごとく念仏者となってしまった。
しかし一代聖教の中の大王であり、三世の諸仏の出世の本懐である法華経の文に、「もし法を聞くことが有る者は、一人として仏にならないものはない」と説かれているのである。
善導は法華経を行じる者は千人に一人も得道する者はいないと定めた。何れの説を信じればよいのか。
無量義経には、「念仏は『未顕真実』といって真実ではない」とある。法華経には、「『正直捨方便但説無上道』といって、正直に念仏の観経を捨てて無上道である法華経を持つべきである」とある。この二つの説は水と火である。どちらの説を信じるべきなのか。善導の言葉を信じて法華経を捨てるべきなのか、法華経を信じて善導の義を捨てるべきなのか。 「一切衆生皆成仏道」が法華経であり、ひとたび法華経を聞けば必ず菩提を成じるという妙典が、善導の一言に破れて"千中無一・虚妄の法"となり、無得道教といわれ、平等大慧の巨益は虚妄となり、多宝如来の「皆是真実」という証明の御言葉も妄語となるのか。十方の諸仏の上至である梵天の広長舌も破られてしまった。
三世の諸仏の大怨敵となり、十方三世の諸仏が覚知し、それによって成仏した仏種を失わせる大謗法の科は甚だ重い。大罪報の至りであり、無間大城の業因である。
この罪によって、(善導は)たちまちに物に狂ったのであろうか。住んでいる寺の前の柳の木に登って、自ら首をくくって、身を投げて死んでしまった。邪法のたたりは後戻りできず、冥罰がここに現れた。最後の臨終の言葉は、「この身を厭うべし。多くの苦に責められ、暫くも休息は無い」であった。
そして、居住する寺の前の柳の木に登り、西に向って願って言った。
「仏の威神をもって我を受け取り、観音・勢至が来たってまた我を扶けたまえ」と。
唱え終わって青柳の上より身を投げて自殺した。
三月十七日首をくくって飛んだのであるが、くくっていた縄が切れ、柳の枝が折れ、
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