ついには法華経や真言等の智者とおぼしき人々もすべて、帰依を受けるために、あるいは往生極楽の為に、皆もともとの宗を捨てて念仏者と成ったり、本の宗派で念仏の法門を仰ぐようになった。
今私は思う。
日本国中の四衆[僧・尼・在家の男女]の人々は、形は異り替わるといえども、意根は皆一法を行じて、ことごとく西方の往生を期待している。仏法が繁昌している国のように見えているが、一つの大いなる疑いを発こす。
それは念仏宗の亀鏡と仰がれている智者達や念仏宗の大檀那である大名や小名、並びに有徳の者の多くが臨終が思うようにならないことを聞いたり見たりしている。ところが善導和尚は十即十生と定め、十遍また一生の間称えた念仏者は一人も漏れずに往生を遂げられるとしている。他の人の臨終と善導の解釈とは水と火のように違うのである。
そこで念仏者が解釈して言う。
往生には四つある。一つには意念往生である。般舟三昧経に出ている。二つには正念往生である。阿弥陀経に出ている。三つには無記往生である。群疑論に出ている。四つには狂乱往生である。観経の下品・下生に出ている。
詰問していう。
この中の意と正の二つはとりあえず置いておく。
無記往生とは何れの経論によって懐感禅師が書いたのか。経論によらないことは信用できない。
第四の狂乱往生とは、引証は観経の下品・下生の文である。
第一に悪人が臨終する時、妙法を覚った善知識に会って、覚った諸法実相を説いてもらっても、これを聞く者が正気を保ち難く、十悪・五逆の諸の不善の苦に責められて覚ることが出来ないのて、善知識は実相の初門となるために、称名して阿弥陀仏を念ぜよといったので、声をあげて称えたのである。
これは苦痛に耐え難いので正気を失ったのであり、狂乱の者ではない。狂乱の者がどうして十念を称えられようか。これは正念往生に含まれるものであり、全く狂乱の往生の例ではない。
ところがあなた方が本師と仰ぐ善導和尚は、この文を受けて転教口称というが、狂乱往生とはいっていない。そのうえあなた方が昼夜十二時に祈る願文で"願わくは弟子等命終の時に臨んで、心は顛倒せず、心は錯乱せず、心は失念せず、身心に諸の苦痛無く、身心は快楽で禅定に入るようである等といっている。この中にある錯乱とは狂乱であろう。
ところが、十悪や五逆を作らない今の世の念仏の上人達や大檀那等の臨終における悪瘡等の諸の悪い重病や臨終の狂乱は理解できない事である。
ところで善導和尚が十即十生と定めたり、また定得往生等と釈しているのは疑いの無いところであり、十人中九人は往生するといっても、一人が往生しなければ不審がおこるであろう。
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