同志と共に

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当世念仏者無間地獄事(とうせいねんぶつしやむけんじごくじ)

まして念仏宗の長者である善慧・隆観・聖光・薩生・南無・真光等は皆悪瘡等の重病を受け、臨終の際に狂乱して死んだと聞き及んでいる。それ以下の念仏者の臨終の狂乱は数えられない。善導和尚の定める十即十生は崩れてしまい、むしろ嫌われている千中無一となっている。千中無一と定められた法華経・真言の行者はほぼ臨終正念であると聞いている。
念仏の法門においては、正・像・末の中ではとりわけ末法に流布すべきであり、利根・鈍根・善人・悪人・持戒・破戒等の中では、鈍根・悪人・破戒の者等がことに往生できると説かれている。したがって道綽禅師は"唯有浄土一門"と書き、善導和尚は"十即十生"と定め、往生要集では"濁世末代の目足"といっているのである。
念仏は時と機根はすでに叶った。行じる者の願い通りになるはずであるのに、このような相違は大いなる疑問である。もしこれによって本願を疑うならば、仏説を疑うことになる。進退は極る。この疑いを念仏宗の先達並びに聖道の先達に尋ねてみても一人として答える人はいない。
念仏者が苦し紛れにいう。
あなたは法然上人の捨閉閣抛の四字を謗法と取り違えているが、あなたの少しばかりの智慧で及ばないだけである。
ゆえに上人はこの四字を私見で書いたと思うのであろう。もとは曇鸞・道綽・善導の三師の釈より出したのである。三師の釈もまた私見ではない。これはまた浄土の三部経・竜樹菩薩の十住毘婆沙論より出ているのである。
雙観経の上巻に、「設モし我、仏を得たらんに乃至十念せん」等とあり、第十九の願には「設し我、仏を得たらんに諸の功徳を修し菩提心を発す」等とある。(観無量寿経の)下巻には「乃至一念」等とある。第十八の願成就の文である。また下巻に「其の上輩者は(略)一向に専念し、(略)其の中輩者は(略)一向に専念し、(略)其の下輩者は、(略)一向に専念し」とある。これは十九願成就の文である。
観無量寿経には「仏が阿難に告げた。あなたは好く是の語を持て。是の語を持つ者は即ち是れ無量寿仏の名を持つ」等とある。
阿弥陀経には「小善根を以てす可からず、乃至一日、七日等」とある。
まず雙観経の趣意は念仏往生と諸行往生と説いているけれども、一向専念といって諸行往生を捨てている。故に弥勒に対しての付属には一向に念仏のみを付属したのである。観無量寿経の十六観も、上の十五観までは諸行往生であるが、下輩一観の三品は念仏往生である。仏が阿難尊者に念仏を付属したのは諸行を捨てよということである。
阿弥陀経では雙観経の諸行往生・観無量寿経の前十五観を束ねて小善根と名づけ、往生できない法と定めている。